祖心尼ゆかりの人々

前田利常

文禄2年(1594年)年1月 前田利家の四男に生まれる。幼名は猿千代。慶長10年(1605年) 襲封して加賀藩主。大坂の陣で軍功をあげ、加越能3カ国119万石の領有を確保。寛永3年 (1626年)従三位・中納言となる。同16年(1639年)封を子の光高に譲って小松城に隠居、また前田利次、前田利治をそれぞれ高山藩、大聖寺藩に分封。正保2年(1645年)嫡男で藩主光高の急死によりあとをついだ孫 前田綱紀の後見として藩政に復帰し、"改作仕法"と称する総合的な農業政策を進め、また漆工芸、絹織物など特産物の育成や発展にも努めた。万治1年(1658年)66歳にて没。


祖心尼との交流録

前田家に養女として引取られた祖心尼(おなあ)は、少女時代を前田利常(猿千代)と共に過ごしました。加賀を離れたおなあ(祖心尼)のことを、利常公は姉のように気にかけていました。また、家光の養女・大姫と前田家との縁談の際には、祖心尼が仲介役を務めたという記録も残されています。

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山鹿素行

元和8年(1622年)陸奥国会津に生まれる。江戸に出て林羅山に朱子学を学び、和歌や歌学、神道なども広く修める。また小幡景憲から甲州流兵学を学び、のち山鹿流軍学を創始。承応元年(1652年)に赤穂藩の招きを受けて軍学を教授し、万治3年(1660年)赤穂藩を致仕して、江戸に出て教育と学問に専念した。やがて朱子学が観念論的過ぎると批判し、古代聖賢の道に帰れと主張。そのため幕府の忌避にふれ、寛文6年(1666年)かつての任地赤穂に流された。延宝3年(1675年)ゆるされて江戸に戻り、私塾積徳堂を開き兵学や儒学を教授した。著書に「聖教要録」「中朝事実」「武教要録」「山鹿語類」「山鹿素行集」など。貞享2年(1685年)64歳にて没。


祖心尼との交流録

山家素行の父・貞以は、祖心尼(おなあ)の夫で会津藩蒲生家の重臣・町野幸和に仕えていました。しかし、世継ぎのないまま当主が死去した蒲生家は、お家取り潰しとなってしまいます。それにより、浪人となった夫とともに祖心尼(おなあ)は江戸へ移住しました。その際、当時6歳であった山鹿素行とその一家も食客として祖心尼とともに暮らしました。やがて、山鹿素行は林羅山のもとで学び始めますが、それは江戸城へ仕える祖心尼(おなあ)の手引きであったといわれています。

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春日局

天正7年(1579年)明智光秀の重臣斎藤利三の娘に生まれる。母は稲葉通明の娘。母方の一族稲葉重通の養女となり、その子正成の妻となり、正勝・正定・正利の3男を生む。慶長9年(1604年)徳川家光の誕生に伴い、その乳母として大奥に入る。家光・忠長の世嗣争いの際には、駿府の家康に訴えて家光の将軍継嗣決定に尽力、以後家光の信頼を得て大奥を取り仕切る。元和9年(1623年)家光が将軍となると幕府の人事にも影響を与え、また大奥を統率して諸制度を定めるなど治世に貢献した。寛永6年(1629年)上洛し、武家伝奏三条西実枝の猶妹として緋袴をゆるされ、後水尾天皇に拝謁し春日局の名を賜る。寛永20年(1643年)65歳にて没。


祖心尼との交流録

春日局の母方の一族が稲葉家であり、春日局は祖心尼の叔母にあたります。

会津藩・蒲生家のお家断絶で江戸に身を寄せていた祖心尼の徳の高さを知り、春日局は彼女に大奥取締りの補佐役を要請しました。また、祖心尼の孫娘「たあ」を大奥に参内させ家光公との間に姫を誕生させる橋渡しをした人物でもあります。

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徳川家光

慶長9年(1604年)徳川秀忠の二男に生まれる。幼名は竹千代。母は浅井氏の娘お江与(崇源院)。元和9年(1623年)三代将軍となり、初めは酒井忠世、土井利勝、のち阿部忠秋、堀田正盛、松平信綱らの補佐を受けながら、参勤交代制度の整備、武家諸法度の改訂など基本的な制度を整備し、幕府の全国支配体制の確立に努めた。またキリシタンの禁圧を進めながらポルトガル船の日本渡航禁止、日本人の外国渡航の禁止などを行って鎖国体制をほぼ完了した。慶安4年(1651年)48歳にて没。


祖心尼との交流録

家光公の勧めにより、おなあは出家して祖心尼となりました。家光公は、祖心尼からも禅の教授を受けたことが伝えられています。花押、維摩居士像を贈り、祖心尼へ済松寺の建立を指示し「わが身は日光に葬られても、わが心はこの済松寺に留まる」と祖心尼に言い残し家光公はこの世を去ったとされています。

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沢庵

天正1年(1573年)但馬国に生まれる。10歳で浄土宗昌念寺に入り、その後臨済宗に転じて勝福寺の希先秀先、宗鏡寺の薫甫紹仲、大徳寺の春屋宗園らに師事。陽春寺の一凍より沢庵の道号を受け、慶長14年(1609年)大徳寺の住持となる。寛永6年(1629年)幕府の宗教政策に抵抗して出羽上山に流された「紫衣事件」が、のちにゆるされて江戸広徳寺に移り、さらに大徳寺に戻った。徳川家光の帰依を受けて品川に東海寺を創建。著書に「沢庵和尚法語」「不動智神妙録」「謫居千首」などがあるほか、書画や詩歌にも優れた。正保2年(1646年)73歳にて没。


祖心尼との交流録

祖心尼の著書『 挙一明三 』には家光公、沢庵禅師、祖心尼との禅問答の様子が記されています。また、沢庵禅師を家光公に引き合わせた人物が祖心尼であるという説もあります。

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